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ナムジャイブログ

vivianfang

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一日一記事、投稿を目指している、、、が。
ついに日付変更線を超えてしまった。
とかなんとか、、、
夜、19時から23時まで延々とTVの前に座っていた。
22時からNHK TVのMUSIC SPECIAL 細野晴臣劇場、イエローマジックショーが良くなかった。
わたしの好きな菅田将暉も出ていたというのに。
19:30からの「魔改造の夜」に、見入って、しかも、悔し涙をもらい泣きまでしてしまった。
理数系の実験、忍耐強い試行錯誤にはいつも
アタマが下がる。
・・・・・

と、以上、消灯後、布団の中で入力していたが、力尽きた。
3秒後には爆睡。

・・・・・

さて、本日。
ちょっとサビサビの頭を使わなければならない。
侘び寂びワビサビなら風流で結構だが、錆び錆びはどうもいけません。
尚、ワサビは、涙が出るので要注意。
(・・・こういう昭和のノリは、昭和歌謡ならいざ知らず、ダジャレはZ世代には最も敬遠されるらしい)

話は戻る。
といっても、サビサビ頭を駆使するのは、長文読解。
これは結構しんどい。
ビジネスはほぼ長文読解で成り立っている。
契約書や報告書、提案、プレゼン、、、表や図もさることながら、写真、音声、映像での説明は、わかりやすい。
だが、長文読解は、下調べ、準備に必要。
書類をどっさり持ち帰ってきたので、それを精査しなければならない。
ああメンドクサ。

この、ギリギリまでやらない行動、2番目孫(小4男児)が正に今が、そう。
宿題を延ばしに延ばして、食事時間にも引きずり、テレビ時間にも引きずり、最後の最後、親のお迎え、玄関チャイムが鳴るまで延ばしに延ばす。
引き渡し時間まで目一杯ズルズル。

「宿題が今、出来なかったら、ばあちゃんちでしなくても、そのまま家に持ち帰ってもらうから。自分の家でやってね」と、怒りと焦りでイライラしているわたしを、
周りの他の孫たちは、空気のように平然としている。
1番目孫Y(小6男児)によると、
「K(2番目孫)は、いつもああだから。
最後の簡単に短時間に出来る、ちょっとだけを残してるだけ」と、いとも冷静。
わたしも、グズグズで、なかなかやらないタイプだが、似なくてもいい、
そこの「あとちょっと残し」のところまで、わたしに似ている。
ハラハラさせられて、ばかみたい。
そう言えば、兄(1番目孫)Yも「宿題しない!したくない!」と大泣きしてすごく抵抗していた時期もあったが。
1人ずつ、順番か。

ところで。
蝶ブログ、毎日アップしなければ、、、と躍起になっているにもかかわらず、なんと、投稿していない日のほうが、閲覧数が多い。
これはどういうことか。
閲覧数はあまり意味がない、ということだ。
自由に、気ままに、のびのびやろう。

わたしは受動的人間である。
自分から光を発する太陽では決してなく、太陽の光を浴びて自転する地球だ。
地球のまわりをぐるぐる回る、生真面目にルーティンをこなす月でもないuche lihkg
マイペースでちょっと軸を傾けて、365日かけてゆっくり回る。

自発的に何かをしたい衝動や欲求は、なかなか現れない。
ひとの人生や行動、ブログなどで蓄積された他からの影響がどんどん膨らみ、やがて動き出すまで、時間がかかる。
胎内時間が長い。
突然、突発的に、オリジナルの何かに突き動かされることはない。
過去の経験の中の何かが、何かを見た時、何かの行動をした時に、瞬間的に誘発される。
なので、自分では気づかない間にインスパイアされている。
「経験」とは、今まて生きて来た時間の積み重ねだ。

そのインスパイアされるものは、人によって様々だと思う。
犯罪行為にまで発展する人もいるだろうし、仕事とはまた別に、趣味が深まることもあるuche伏
好き嫌いは、感性による。
道徳心や倫理観にも左右される。
好きな興味あることは、追い求め、情報を積極的に取りに行く。
嫌いなことには目を背ける。
「好きなこと」は、どんどん精錬されていく。
その場限りのものもあれば、無意識にこころに残っているものもある。
枝分かれし、主流から派生していることもある。
ある日、知らない間に自分の中にあるものが、突然、呼び起こされ、引き出されることがある。
引き出しがたくさんあると、呼び起こされる頻度が多くなり、広がり、深まり、濃くなる。
が、自分で整理していないと混乱するだけとなる。

真横で同じものを見て、同じことをしても、何も考えず、何も感じず、何も見ない人もいる。
人それぞれの価値観、感性である。
同じ価値観、、、は、なかなかぴったり一致するのは難しいから、合っている部分だけを共有する。
感性や考え方も然り。
ボール(球)のように全ての面々で接するのは困難だが、多面体で、一面が小さければ小さいだけ、接するところが多い。
ただし、球は転がって安定しない。
何にでも一長一短があり、表裏一体。

何も見ない、見えない人は、それはそれで安定して幸せであるuche呃人
何でも見える人は、自分が定まりにくい。
選択肢は少ないほうが、幸福感が上がるらしい。
なんでも選べる人は幸せかというと、これまた一長一短である。

各国、なぜ少子化になっているか?
人口の多い国はこれから栄華の時代を迎える。
昔は貧乏人の子だくさんというイメージがあった。
産めよ増やせよの時代を過ぎて、やがて理想とする子育ては教育にお金がかかる搬琴
質を追求して子供の数を減らす。

自分の生活や人生の質や充実を重視して、子供を産まない、結婚もしない。
少子化の波に歯止めがかからない。

価値観の変移か。
しかし夫婦で協力して子育てしている姿をよく見かける。
女性が普通に家庭外で働くようになって、家事、育児の協働が目立ってきた。

介護について。
老老介護もさることながら、わたしが知る範囲では、リタイア前後の男性が母親の介護を担うケースが増えてきている證婚場地
嫁ではなく、息子。
時代は変わった。

だが、まだ旧態然とした価値観は人によっては変化せずにそのまま。
特に前期・後期高齢者あたりの、昭和男性は、アタマの中が変わっていない。
今更、変えようにも無理。
周りは諦めている。
が、少し突くと、火薬庫の爆発が起きる。
啓蒙啓発は無駄なので、あたり触らず、そっとしておくしかない。

いくら目の前で若い婿が家事・育児をしていても、自分には直接関係がなく、映画を観ているようなもので、自分事として捉えていない。
その状況が許されているわけではなく、アタマのカタイ人は、居ないもの、存在しないものとして扱われている。
特別な地位、特権を与えられているわけではない。
治外法権の例外区。
経済発展区なら良いが、限界集落のようなもの。
再生などには手付かずで、やがて朽ち果てるのは時間の問題。

ちなみに、我が家があるのは、半世紀前に大規模開発された地。
我が家の近所周り、土地家屋の新旧移り変わりが著しい。
開発、分譲当初、安い値段で買って入居した人々は90歳近くなっている。
家を手放し、駅近くのコンパクトなマンションに引っ越しているか、老人ホームに入っているだろう。
綺麗に区画され整列していた各邸は、歯抜けのように、どんどん古い家が更地になっていく。
そして、新しい家が建つ。
ちょっと家の周りを散歩すると、あちこちに動きが見られる。
1番の動きは、わたしが寝ている2階の部屋から見える風景が変わったこと。
今まで何もなかったのに、窓から全面にドーンと大きな家が立ちはだかり、こちらの2階と目線の位置が同じになった。
うちの1階からは見えないのだが、2階から見ると存在感を現している。
なぜ、1階からは見えないのに2階から見えるのか。
というか、2階からしか見えない。
うちの玄関の反対側(背後)の家の、更に道を隔てたお向かいの家。  
何十年も手付かずの空き地だった。
裏側の筋を一つ進んで足を運ばなければ、家が建っているのが1階からではわからない禮品訂製
そして、うちの2階から見えるのは、大きな家の横側。横姿。
道路側の間口より奥行きが広く建っている。
道路側の横から見ると幅が狭いが、直方体の大きな家。
大きな家が建ったと思っていたら、それは横側から見た姿で、実際はもっと大きかった。
(書いても書いても、うまく表現、描写できない。
図面か、写真なら一発でわかるのだけど。
なぜか、この家の形状、形態を表現したい)

普通、人と人が、あまり深く知らない距離感なら、頭の中身はそうわからない。
明け透けに話したり、出したりしても、それが全てなのか、または真実なのか、誇張表現なのか、等身大のお人柄なのかどうかは、長い目で見ないとわからないことがある。
長い目で見ても、わからないこともある產後減肥
が、次第にわかってくる。

友好関係を結ぶにしても、大きく分けると、知的で、思考力の高い人と、そうでない人がいる。
だが、生き延びるには運が左右するので、知性や思考力はあまり関係ないこともある。

知的好奇心がない人は、何かを見ても接しても、あまり本人の印象に残らない。
すーっと表面を見るだけ。
別にそれが悪いわけではないが。

旅行やニュースも、海外には全く興味を示さない。
飛行機が怖い、とかではなく、自分に直接関係がないから関心を示さない。
もし、行けない絶対的な事情があるなら、行きたいという欲求や感情が芽生える前に無意識に押し潰すのだろうか。
関心を示したところで、どうなるわけでもないが、関心が積もり積もると行動に現れる乳腺纖維瘤
一生、関心が薄い人もいて、家族も似たような感じなので、何の摩擦も起こらない。
目覚めるのが良いとは限らない。

人は人。
それが悪いとも良いとも、わたしは言っていない。
そういう人がいる、というだけだ。
同じような人同士が暮らしているので、問題はない。
本を読んだり、情報を得たり、考えたりしないので、こころは例え退屈であったとしても、本人は退屈の理由がわからない。
理由がわかったからといって、解決できるとは限らない。
物知りだからといって、行動しなければ、どうなるものでもない。

思っていても口に出さないだけの人もいるだろうし、行動に移さない人もいる。
ただ、志というものは、「持つ」と「持たない」、「ある」と「ない」では違ってくる預防骨質疏鬆
周りにどんな大人がいるかによって、影響を受ける。
周りにどんな老人がいるかによっても、大きく影響を受けると思う。

先週に初めて訪れた、令和元年スタートの40代主婦ブログ。
面白い、、、のではあるが、、、読み進めると、当たり前なのだが、意見や感覚の相違が見えてくるmyob 價錢
まずなんといっても、年代の違い。
育った時代背景が絶対的に違う。
時代や育成環境による価値観も違って来て当然。
何を隠そう、、、(隠す必要はないが、つい演出癖)、彼女はわたしの娘たちと同世代なのである。
個性はそれぞれだとしても世代は同じ。
わたしには娘は2人いて、お互いに逆の性格、行動パターン。
それから見ると、今回の主婦は、どちらにも偏っていないとは思えるが、共通点はあるし、相違点もある。
息子の嫁、みたいな感じか。
(嫁、いないが。兆しも全くないが)

まず、ブロガーさんがご自身を一言で表現するプロフィールが「主婦」であること。
兼業主婦の場合は、「兼業主婦」と明記すると思われる。
娘世代で専業主婦は、どれぐらいいる?
それを自分を端的に表すワードとして、一番前面に押し出す人は、どれぐらいいる土木工程
ブログを読む限り、どうも専業主婦のようだ。
主婦はたくさんいる。
が、プロフィールとして専業主婦とするには、それなりの本人の自負があると想像する。
多分、「専業主婦」とは明記されず、「主婦」と書かれていたと記憶するが。
ではあるものの、ハウスキーパー的なプロ家事人的な面は感じられない。
仮にちゃんと家事はこなしていても、あまり精神的に力を入れていないだけかも知れないが。
美容やファッションには興味がおありなようだ。
まだお若いので、自然なことだが。
お子さんも大きいし、都会のマンション住まいの核家族。
有り余る自由時間をご自分のためにたっぷり使っているんだろうなあと推測する。
取り上げる題材には少々偏りがあるものの、人のことは、全く言えないわたし。
言う資格ゼロ。

娘たちとの大きな違いは、、、やはり、興味の対象が、彼女とは同世代ではあるが、わたしの娘たちが持つ興味とは違っていること。
時間の使い方が違うこと。
ではあるものの、膨大な自由時間を惜しみなく使って、いろんな考察、調査を交えた記事を書いてくださるので、わたしが調べる手間暇を割愛できる。
その中から興味ある部分をチョイスして、いいとこ取りをさせていただき、享受している。

わたしの蝶ブログはひどいものだが、それを自覚した上で、確信犯的に言わせていただくと、、、(言わなければよいものを)
と、ここで筆が止まる。(江戸時代的表現)

やっぱり、やめておく。
自己制御。
なんでも言えばよいものではない。
胸のうちにしまっておこう。
だがしかし、わたしの自分に対する理想は、この、ケシカラン感想が自分の内面から自然に湧いて出て来ない、器の大きな、こころのキレイな寛容な人間になること攝影新手
なれるかな?
生きているかぎり、自分の短所、欠けている面と格闘し続けるだろう。
それが「生きている」ということに他ならない。

脱力感というとまだいいが、虚無感、無力感に見舞われている。
ぽかっと空洞が出来たようなかんじ抖音廣告

何もする気にならない。
時間を持て余す。

キッカケは、ある。
だが、それは本当のキッカケではなく、たまたま、表面的な糸口だったように思う。
自分が追い求めているものは、自分が未熟なせいで絶対に手に入らないものだと実感した。
原因は自分にある。

自分の性格を大改造しない限り、自分以外に解決を求めてもダメ。
では自分が変わればいいではないか。
自分は変わらない。変わりたくない、変われない會計軟件
仮に変わろうと努力すると、土台から潰れてしまう。
今まで積み重ねてきたものをリセットすると、土台ごとなくなり、わたし自身が壊れる。
そぉっと、上のほうだけ変えたらいいではないか。
あるいは、最小限の芯だけ残して、大改造。
または、大々的な改造でなくても、ミニミニマイナーチェンジするか。
だが、自分が足を引っ張っている。
どうにもこうにもならない。

さらに考えられるのは、努力したからといって変われるわけではない。
期待する結果が得られるわけではない。
努力もせずに、架空で言っているわけではない。
努力はした。
よく言われる日本人的特徴としては、プロセス重視で、結果より、到達するまでの努力を評価するらしい。
が、、、諦めるという結果もある。
目標から手を離す。
諦観、解脱の心境。あと一歩。

そこで、般若心経読本。
あまり役には立たなかった。
気を鎮めたり自分を立ち直させたり、全然しない。
よけいに落ち込んだ。
何をしてもダメなようだ。
こういう場合は、何もせずに時を待つ。
が、待っている間は結構、苦しい縮時攝影
こんなことは、今まで初めてだ。

とは言え、思い起こせば、かつても経験したように記憶する。
1回目の無気力は18歳、2回目は40歳代だったが、特に40歳代の無気力はただ「楽しいことをしたい、という、自発的&活発な意欲がない」と自覚するだけのもので、さほど気になるほどでもない、うんと軽い症状だった。

悪女。
ずいぶん憧れた。
でも無理。
人をだますことは、心苦しい。
(だましてない、とは言ってません。
だました、とも言ってません)

わたしはメンタルが強いほう。
というか、鈍い。にぶい、とろい。
ではあるものの、わたしは、すぐ良いように解釈したり、忘れる床蝨解決
執念深さや粘り気が不足しているかも?
いやいや、蛇のように、ジトっと陰気臭く攻撃の機会を狙っているかも?
いやいや、最近はそういうマイナス思考ではなく、明るく老後計画、自分教の教祖であり、かつ信者。

しかし、悪女になって、何がしたい?
地位、名誉、栄誉、権力、お金、人気を得たい?
(あ、これ以外に大事なものを忘れた。
現役女性の皆さんからブーイングの嵐かも?
愛している人からの「愛」。これ、必要かな?と→想像)

そんなの、いりません。
「やりたい時に、やりたいことが出来る状態」があればよい環保禮品
それを「幸せ」というらしい。
(幸福論のリーダーが著書でそう言っていた)

静かに暮らせる老後の資金だけでよい。
それと、心身の健康を維持したい。
お金はさておき、健康部門は、悪女であろうがなかろうが、関係ない。
なので、憧れカテゴリーに「悪女」を入れる意味がない。
できれば、入っていないほうが望ましい。
ではあるものの、「悪女」の二文字に食らいついてしまうこの吸引力。
怖いもの見たさか。

人間は二面性があり、表裏一体でもある。
善人と悪女も、解釈の仕方によっては変わる。
時代によっても変わる。
誰が見ても「悪女」とされるのは、罪を犯したらわかりやすい。
実際に罪を犯すのと、「罪な人」は別。

一般的に女性はあまり暴力性がないと思う。
女性ボクサーやレスラーもいるが。
血みどろにさせてやりたい、というような欲求からボクシングやレスリングをしていないと想像する。
わたしが勝手になんの根拠も論拠もなく考えるには、女性は毎月血を見るし、出産でも出血する。
だから、あえて能動的に出血させるようなことは、もう結構、No thank youなのではないだろうか。

たんに男女問わず「悪人」でよいのに、「悪女」と、わざわざ表現するには、男性に対して悪い女性、ということか。
男性をだます、手玉に取る。
しかし、、、これまた、なんの根拠も論拠もないが、善女は、結構、厄介だったりする。
悪女は自分が悪であることを自覚しているが(自覚してないなら、そうとうの脳みそ)
善女は、自分が正しい、善であるとなんの疑いもなく信じている環保餐具
それが強すぎて、逆の作用を働かせることもある。
(男性、女性に限らないが)

わたしの実家のおくどさんがこの度、蘇る。
前から故障はしておらず、単に使っていなかっただけ。

わたしがうんと子供の頃、おくどさんでご飯を炊いていた微針凹凸洞
おくどさんは金属製小窓で火加減は調整する。
お風呂も焚き木で沸かしていた。
ぬるいと、祖母が焚き木を追加して焚べてくれていた。
味噌も梅干しも自家製、当然、お餅も臼と杵でペッタンペッタン。
餅米もおくどさんで大量に炊く。蒸す。
祖母が臼の中のお餅に水をつけて、男性が杵を振り翳す度にペタペタしていた。
焚き木を収納する部屋や、味噌を入れる味噌部屋があった。
夏は井戸水の中にスイカを沈めて冷蔵庫代わり皮秒去斑
冬は火鉢。
コタツは木製の格子箱?の中に炭?(または練炭?)
季節感が溢れていた。

わたし、ひょっとして、とんでもなく田舎の生まれ育ちか?
TV番組「ポツンと一軒家」の山の中で自給自足の生活をしているイメージ図か?
うーーん、、、ちょっと違う、、、。
あそこまでワイルドではない。もう少しマイルド。
家にはピアノや自家用自動車はあった。
プロパンガスもあり、台所やお風呂はぐっと近代化された。
のではあるが、やはり、昔の原風景はいまだに瞼の中に定着している婦產科醫生
体感として残る。
良い体験をさせてもらえた、と、豊かな自然に囲まれて暮らしたことは、今ではわたしの無形の宝物になっている。

記入を下二桁間違ったわたしが、明らかに悪い、、、のではあるが、、、
正確な(神経質な)読み取り機械のせいで、配達し直しさせられる配達人の方はご足労いただき、お気の毒。
マンパワーの使い方が効率的ではないように思う)

で、続き。
ご丁寧に(もたもた)シールを剥がして郵便局の人が封をする家居害蟲
さらに追跡番号シールを剥がすのもご丁寧(に見える)。
その間、電話に出て、調べてご丁寧に対応。
この男性は、きっと性格の良い、おっとりした方なのだろう。
あるいは、いつもの窓口女性がいないため、日頃の業務ではない、慣れない作業だったのかも知れない。
が、あくせくバタバタして間違っては、元も子もない。
封を自分でしない、郵便番号を調べない人、そういう人に代わりに親切にゆっくり封をする、郵便番号を調べる人、後ろでバスの時間と闘う人、、、。

と、これは昨日の話。
書けば書くほど、その嫌味ったらしい遠回しの書き方に、わたしがカンジワルイ人物だということが露呈される。
カンジワルイついでに、もうひとつ。

今日、バス停でバスを待っていた。
2人ぐらい既に先に待っていて、バス停到着はわたしが3人目ぐらい日本移居
わたしは、バス停の中でもバスのドア停車近くで待っていた。
その後から数人やって来た。
で、バス到着。
後からやってきた何人かのうちの1人の年配女性が、会釈をして、わたしを通り越してバスに乗った。
前から順番を待つわたしは、べつに譲っていない。
何も言わずに順番を抜かすのはケシカラン、、、が、会釈をすればオッケーなのか?
順番を譲る場合、足の悪い人だとか、乳幼児連れだとか、明らかに譲る原因がある人。
譲る原因がないのに、会釈でスキップ(飛ばす)システム?
会釈はオールマイティの万能ツール?
ごめんあそばせ、と。

例えば、トイレの順番など、激しく著しく急を要している人の場合は仕方ない。
年嵩いかない子供の場合も。
譲る。
特別な状況を除くと、電車の時間と競い合いながらの場合、広いこころが狭くなる。
電車、一本、乗り遅れる、、、
だがしかし、それはこちらの事情。

会釈で許せる場合は、周りに「どうぞ」と先に譲られてから。
「どうぞ」と言われなくても、状況から判断して、それどころではない、緊急を要する場合や、明らかにハンディがある場合は、皆さん、無言で譲るだろう。

そうでもない場合は、妙に引っかかり、納得出来ない。
なんで、順番を守らない?
なんて、こころが小さい、狭量の器なんだろう。わたし。

今日も、自己チューなわたしは、他の同レベルの自己チューを見逃せないでいる迷你倉裝修存倉

女性は(わたしぐらいのリタイア年齢になると)、暮らしを楽しむことで日々、充実感を得る。
ものすごくお金がかかるわけではない。
何を食べようかな。
あ、そうだ。昨夜の残りもののカボチャ、ハムとチーズを乗せて焼こうか漂白牙齒
それとも、ミートソースを乗せようか。
一人で自分が食べる、本日のメニューを考える。
生協宅配の申し込み書も、ひとりでほっこり食べられる苺のかき氷、これを頼もう。
今日、帰宅してから食べられるように、宇治抹茶あんみつを解凍しておこう。
(食べることばかり)
何時間か後の楽しみがじわじわ押し寄せる。

好きな器や調度品、花や草木、香りの小物、、、脇役も勢揃い。
小さくなって着れなくなった衣類を手直ししたりして、気分を一新するとまた着れる日が来る。
誰に見せるわけでもなく、自分を楽しませてくれるモノ。
自分のこころの中を表現する絵も描いてみたい。
そう、知人Aに言うと、絵画教室に通わないとね、と反応泌尿專科
べつに習いたいわけではない。人に見せたいわけではない。
発表会や展覧会に出したいわけではない。
自分独自の表現をしたい。
溢れるままにアウトプットをしたい。
だが、その知人Aは基本から習う路線を譲らない。
二人の話は平行線。
次第に語気を強めて行くわたしに、知人Aはヘキヘキ。
「アタマが痛くなってきた」と一言。
で、その話はお開き。
人それぞれ好みの問題で、建設的ではない話に必要以上に熱くなり、わたしも反省した。

実はこの知人A、、、アタマが柔らかそうでいいなあ、と、第一印象を受けた、、、が、カチンコチンだった。
見誤った。
まあそういうこともある。

そもそもわたしは体育会系の人間は苦手だ。
でもわたしが文系、インドア派なので、ほっておくと全く運動をしない。
老体に鞭打ち、健康寿命を維持するため、自分にハッパをかける意味でも、この、アタマカチンコチン体育会系人間と、運動している。
体育会系は、ほんとに困る。
わたしが「足が痛い、膝が痛い」と無理したくないそぶりを見せると、「絆創膏を貼ったらいいですよ」と、取り計らってくれない。
わざと悪いジョーク。聞き飽きた。
こんな人のペースに巻き込まれたら、健康寿命がかえって目減りする。
自分の身は自分で守らなければいけない。
なので、もうダメ、MAX限界、という一歩手前で音をあげることにしている。
ギリギリまで頑張ると、身体を壊しては意味がない。
根性なし、と罵られようが、わたしは健康寿命を第一優先的に考える。
旅行はもちろんのこと、日常生活にまで支障をきたすようなことにでもなったら大変。
生活の質が著しく低下する。
自己責任。
なので、自己鍛錬や自己向上などには目を瞑り、ひたすら防衛に回る。
自分はもう闘わない局面に来ている。

向上を忘れたら老いるだけだ、と、アンチエイジングで頑張っている人がいるが、それでストレスを溜めていたら、せっかくの黄金の健康寿命が泣く。
無茶はよくないが、何ごとも程々に牙科專科醫生
それでは生きている意味がない、生きた屍だと嘆くボルテージの高い、何ごともやる気満々、全力投球の人は、頑張ってください。
人には人の道。
現役こそが生きる証、とパワフルに頑張る人もいる。
だがしかし、もう頑張らなくてもいいなんて、なんと幸せなことかと、わたしは思う。
生涯現役を望む太く短い短距離走タイプの男性脳と、細く長くの女性脳は違うかも知れない。
リタイアして、何をそんなにシャカリキに頑張るのか、わたしにはわからない。
逆に、一気に何もすることがなくなる人がいる。
退屈で死にそうになるらしい。
両極端。
間がない。