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ナムジャイブログ

vivianfang

vivianfang

使いこなせたら、変な文章ではない、さぞかし精製された熟練度アップの文章が書けることだろう。
スキルアップ間違いないだろうけれど、もはやわたしの文章ではなく、わたしの手を離れている。
それはそれで素晴らしいのだが去眼袋
イソップ物語の「酸っぱい葡萄」になっている。
出来ないのではなく、してないからだ、とすり替える、負け惜しみの言い訳。
しかし、これはわたしの人生スタンスでもある。
完成されないわたし。

と、冒頭の一行のせいで、いきなり、脱線。
文法や言い回しに自信がないというのはツラい。
昨日アップした記事、アップした瞬間にアピール記事にしたのだが、あらまあ内容が間違っていた。
有吉佐和子、1931年生まれを勘違いして「団塊の世代」と書いてしまっていて、慌てて訂正したが、もう、数人の方はお読みになった後。
まあそういうこともある。
わたしのブログは信用ならない。

さて、話を戻す。
昭和は隔世の感である。
昭和生まれ、昭和育ちの親に育てられ、自分もずっぽり昭和人間血尿
それはまあよい。
問題は、配偶者(夫)が、昭和カチカチ頭だということだ。
時代の流れには全く着いて行かない、着いて行けない。
時代の良い面は踏襲すべきだが、改革して欲しい意識面は、全くびくとも変化しない。
男尊女卑だったり、家父長制だったり、明治の流れをそのまま無意識に引き継いでいると思われる。
昔の、おボッチャマ。
昭和どころではなく、改革のしようがない。
なので、治らない傷口のごとく、当たらず触らず、そっとしている。
火薬庫には近寄らない。
負けるケンカはしない。
そもそも夫は自分が優位に立てるような人物を人生の伴侶に選んだ。
わたしは負け続けることが、生きる道。
その道を捨てることも出来るが、今はしない。
そのうち道は拓けると信じているから、余裕のスマイルだ。

第一、俯瞰的に宇宙規模で見ると、わたしの不幸は蟻より小さい。
それを不幸と呼ぶことさえ、憚られる。
世界中に不条理がまかり通っているが、誰も何も出来ない。
正論を唱えても通らない。
多くの悲劇がこの瞬間にも巻き起こっている。

ただ、世界中の悲劇は胸が痛いが、直接、関係ないと言えば関係ない。
一人一人の痛みを我がことのように深く強く感じ入りシェアしていたら、身体もこころもズタズタになる。
神経が持たない。病気になる。
それはそれで他人事だからと無関心になるのは良くないとしても、先ずは自分の快適な日常を確保するほうが第一電動牙刷比較

具体策はない。
が、次の日から、夫が脱いだまま床に放置しているホームウエア半パンを通り過ぎる度に、足で上から踏みつけた。
何度か通ったので、何度も踏んだ。
だいたい、そもそも床に脱ぎ散らかすこと自体が悪い。
夫の母親が、夫に対して、自分の身の回りのことを自分でする「暮らしの自立」の躾をして来なかった黑眼圈消除
引き続きわたしも躾をし損ねたことに自省、自責の念を強く持っていて、常に自分を責めている。
にも関わらず、悪意を込めて復讐心たっぷりに踏みつけた。
意外と効き目はあった。
このヤロー、バカやろー、と。
ボコボコにやっつけた気分。
姑息で卑怯。
だが、知らぬが仏。実害なし。

願掛けには、お百度を踏む。お百度参りMedilase 脫毛
信仰否定は、踏み絵。
同じ踏むにも、全く真逆の思い。
では、半パン踏むのは、踏み絵に少し似ている?
憎しみの陰険、踏み半パン。
スッキリはしないが、しかたない。

「大好きな大好物の苺をけなされ、キレた!」
に近い、今回の流れ。
苺が好きな人の気が知れない、だとか、苺が好きな人にはろくな人がいない、だとか、苺ばかり食べていたらいずれ病気になる、だとか、
そんなことは、全くわたしは言っていない、、、にも関わらず、何故キレるのか、まるでわからない。理解できない。
老化?病気?
理解できないということが、わかった。

だが、古今東西、世の中にはこういう出来事はよくあるように思う去眼袋方法
歴史の転換や事件の引き金になったりしている。

何の疑いも持たない自分の信念を持っている人は、オメデタイ場合がある。
厄介である場合がある。
何も知らない。
自分が正しいと思い込んでいる吞嚥障礙
むしろ、他人の意向や意見に振り回されるのは、幸福になる障害である、と説く。
自分軸を持つ。
つまり他者の言うことを聞かない、耳を貸さない。
一旦聞いてから、言うままにならない、従わないのならまだしも、最初から耳自体を持たない。
自分の考えに疑う余地もないと思っている。

それは、違う。答えは一つではない。
人間や物事の一面はそうでも、多面的側面がある。
その多面的側面があることを知りながら、あえて言及しないのは納得できる。
が、多面的側面を一刀両断している。
ある意味、潔い、、、のではあるが、
自分のこころの衛生上、幸福度を上げるためにも正解ではあるが、、、
少しでもこころの隅っこに、自分は正しくない面があるということを認識してほしい盆腔超聲波檢查
ちなみに、幸福論では、「正しい」「正しくない」には判断できる根拠や基準がなく「好き」か「嫌い」か、らしい。
そうやって、自分をどんどん幸福に導いていくのは、浄化され天国に近づいて行くかの如く、素晴らしいことだと思う、、、ものの、、、

わたしはやはり、人間には欠点があるし、間違いや失敗も起こす、そのマイナス、影の部分も受け止めなければいけないと思う。
ではあるが、なかったことにするほうが、幸福になれる場合による。
大事故や災害、病などには、原因を客観的に追求はしても、受けたこころの傷、マイナスには触れないようにすべきだとは思うが、
普通の日常、ノーマルに戻ったら、人としての陰と陽があることは陰を否定するのではなく認めてほしい。

それと幸せな家庭とどう関係があるのかと思われそうだ。
自己肯定は自分を幸せに導き、幸福度を上げるのはよく理解できるのだが、
自戒や自省を含めて、なんだか片手落ち感を感じずにはいられない。
自分が幸せになるためには、他者の不幸に目を瞑らなければならない?
自分も家族も幸せをシェアすると良い。
よく言われる言葉がある。
喜びを2倍に、悲しみを半分に。

その、喜び分野はよくわかるのだが、夫婦間でエゴ等のぶつかり合いはどうしているのかと。
取るに足らぬ普通の当たり前のことなので、わざわざブログには書いていないのだろう。
それにしても、、、なんか、プラスばかりでは、わたしは落ち着かない。
あのFIREブログ主は、夫婦でお互い見て見ぬふりをして、幸せ度をアップしているのだろうか。

人が幸せになろうと努力しているのに、あれこれ思うのは、土に穴を掘って吠えて埋めるならいざ知らず、しかも自分のブログに書いて公開するなど、ほんと、余計なお世話である。
ブロガーさんが自分のブログに良いことだけ書いて、言いたいことだけ書いて、何が悪い?
嫌ならそのブログを読みに行くな、来るな、である。
こんな言いがかり的なことを本人には直接言ってないし、言う必要もないし、影響力のない自分の蝶ブログに、ボソボソ呟いている。

しかしまあ想いを吐き出すのに、こんなに文字数を使い、気分が悪くなるほど長文になってしまった助聽器價錢
本当は、ズバリ、ズバっと書きたいのだが(文字数もほんの少しで収まる)、人を斬ると自分も不快になる厄介な性分なので、いつもオブラートに包み過ぎて、なんのことやらわかりにくい。
言いたいことが吐けて気分スッキリかというと、そんなこともなく、長すぎて、船酔いした気分。
誰をも幸せにしていない。

わたしの知性面の大師匠であり、先生である、とあるFIREブロガーさん。
毎日更新されるブログに啓蒙啓発されているが、前々からなんとなく思っていることがあった。

この方は、ご自分が歩んでこられた道に、何一つ、後悔がない。
というか、年老いて後悔しないよう、悩みや迷いの末に、舵を切り今日に至っている峰力 平
曇り一つない。
そして、これまでの歩みは、素晴らしい。
正々堂々、どこに出しても恥ずかしくない立派な輝かしいものだ。
その点には私は脱帽し、尊敬している。

が、おや?と、ふと感じたことがある。
奥さんに関する記述が一行あった時だ。
あれ?
わたしは妻の立場を長年やってきて、夫が思っている妻像、なんだか違う、違和感を覚えた。

このブロガーさんのように努力し、自信を持って人生を邁進する、、、なかなか出来そうで出来ることではない。
なんの異論もない。
全ての事柄に、立証できる文献なり研究なりの証拠を示して力説される銅鑼灣牙醫推薦
納得できる。
この「全ての事柄」というところに疑問を感じた。
学問、科学や政治、経済は研究すればするほど幅や奥を知る。
そして、研究の結果、自分の信念を持ち確立する。
まるで意義なし。

人間のこころについては、幸福論を追求するのがこの方の生涯のテーマなので、これで全てが網羅されている。
が、、、わたしの疑問はそこにある。
文献や研究、データに基づく分析、理解。
これは大事。
単なる勘や思い込みがもしあったとしても、それを仮定として、立証できれば良い。
立証プロセスこそが重要である。

それはその通り。
で、疑問はほとんど解決され、さらに幸福を深め邁進するために、日々、充実した時間を能動的に過ごされている。

が、しかし、、、
そのブロガーさんの奥さんのことは、全て自分が思っている通りだと、信じておられるようにお見受けする。
客観的学問的探求と、実際の「灯台下暗し」的な感覚。
現状において幸せな人に、不安を煽って新興宗教に誘う手口に、こういう切り口がある、、、が、わたしは新興宗教の手先でも幹部でも教祖でもない。
わたしと、ブロガーさんの奥さんは、全くの別人、別人格なので、同じではない雙下巴消除
何の利害関係もない。
一緒くたにしてしまい、自分の考えを押し付けるのは、筋違いで間違っている。
なので、ここからは話を一旦離脱させる。

最近はあまり自分が楽しみながらブログを書いていない。
つまり、ノッてない。

ところで、女性の一人暮らしは、男性に比べると楽しいかも知れない中學
何を作って食べようかな、何を買って食べようかな、と、自分で出来る。
家の中を自分の好みに片付けたり、縫い物をしたり、掃除をしたり、好きなように出来る。
男性は家事をしてこなかった人が多いから、家に一人で居てもTVを見るぐらいしかすることがなくて退屈だろう。
生活を工夫して楽しむノウハウがない。

一人暮らしのシニア男性が3食手作り食事をSNSでアップしていて、美味しそう。
なかなかマメな人だ。
趣味は料理なんだそう。
趣味と実益を兼ねていて結構なことだservice apartment月租

脳にだけ刺激を与え続けるのではなく、生活を楽しむことが出来れば良いのに、男性は生活そのもの、暮らしを楽しむことをしないような気がする。
暮らしと切り離した趣味に没頭したり、スポーツや、車、登山、などなど、暮らしとは別の、特別なことをしないと面白くないのではないだろうか。
そんな人は暮らしのベース、つまり家事はどうしているのか。
器用にこなす男性もいる。
逆に、不器用な家事嫌いの女性もいる。

わたしに関して言えば、家に一人で居ると、わりとご機嫌だ。
退屈することもあるが、活動日とほぼ日替わり、交替なので、退屈は刺激の下準備、メリハリになる。
たくさんの退屈があってこそ、ほんの少しの刺激がスパイスになって効く。
わたしは、歳を取ったなあと、つくづく思う。(悪い意味ではなく)

去年は、ちょっと刺激があり(趣味分野で、ワタワタした)、そちらに気を取られすぎ、とても大事なことをすっかり忘れて、大変なことになった。
実社会(実業分野)で大ダメージ、被害を被った。
まだ次善策は整っていないが、被害を拡大せず食い止める手はとりあえず打った。
大きな地滑りはストップ状態ではあるが、小さな地滑りは収まらず良い方向には向かってないものの、静観、待機。
今年は打って変わって、落ち着きすぎて退屈。
とは言え、昨年の失敗をまだ修復していない。
マイナスは落ち込んだままで、回復していない。
もっと躍起にならなければいけないのだが、騒ぎもせず、落ち込みもせず、未解決なまま、へんに落ち着き、退屈してしまうほど。
どうなっているのだろう。

さらりとした自分。
余計なものが洗い流された感はあるが、大事なものも、同時に流れ落ちてしまったような気がする加拿大移民新政策
眠くなりそう。
また復活する日は来るのだろうか。
20年早い感想だ。
だが、静かな自分も嫌いではない。
ひっそり動かない日々を楽しんでいる。

読んでいた本をやっと完読した。
わたしは読書も遅い、のろのろだ。
で、その中で、最後あたりに著者が言いたかったこと。

自分の生き方について。
やりたいことが出来る、毎日サンデーの特権を手に入れたなら、、、
膨大な時間を持て余すのはあまりにももったいない紮肚
やりたいことをやるにも何をやるか定まらない場合は、、、
脳を萎縮させないためにも、子供心に戻って自分がかつてワクワクしたことを書き出してみよう、とのこと。

で、ふと思った。
子供の頃、ワクワクしたことなんかあったかな、と。
秘密基地だの虫取りだの、電車が大好き!だとか、別に無い。
うんと小さい時は、あったかも知れない。
強いて言えば、お花畑だとか、お花でおままごとだとか。
が、、、。
おかあさんごっこのお花を使ってお料理遊びなんか、実際に大人になったら食事作りは苦行。
ワクワクなんて程遠い。
ボルテージの低い、低温の可愛げのない子供だったようだ移除智慧齒 價錢

青春時代にワクワクしたことは、青春時代だからこそのスイタホレタ恋愛もどきだし。
女性的若さも情熱もエネルギーも魅力もなくなった今となれば、ないモノねだり。
(あくまでもピーク過去との比較)
渇望すればするほど満足や幸せから遠のく。
諦観あるのみ。
輝きのピークに子供を産み育て、今は空の巣症候群か?というわけでもない。
そんなに頑張らなかった。
毎日、生活に追われていただけだ。

時間がたっぷり出来たら、何がしたかったんだろう?
こじんまり日常の生活で満足を得ている今としては、別にやりたいことを箇条書きにするようなことはない。
マチュピチュにもあまり行きたくなくなった。(先日の現地ストで)

知人を見る限り、あんまり、あまりある時間を謳歌している人はいない。
時間がない時からそうだったが。
皆さん、何をするでもない、(わたしにとっては)じつにつまらない生活を送っている瘦面
わたしは、限られた特殊な趣味の面だけで接しているため、その人のその他の面は面白いと感じない。
(例外もある)

やっぱりわたしは自主性がない。
強力に圧されないと動かない。
昨夜、布団の中で仰向けスマホでアップしたような、今日、明日の行動、、、計画倒れの予感。

行っても行かなくても、してもしなくてもよいことは、必要性やモチベーションがないと、やる気を起こせない聽力測試
一緒に行こうと誘われていても、強く圧されず半ばわたしの自主性に任せるカタチだと、ずるずる行動に移さない方向に流れてしまう。
えいやっと決断する(スイッチをオンにする)瞬発力が必要だ。
慣性の法則、以前のままでいたい、動きたくない、と、エネルギーを出すのを惜しむ、易きに流れる傾向にある。
ひたすら、動きたくない、強力なアンチパワー。
そのくせ、何もしないままで長時間過ごすと後味の悪い後悔が押し寄せる。
めんどくさいけど、えいやっと行動に移すキッカケを自分で作り上げなければ、何も動かない。

冬は、こたつに、ミカン。
そういう過ごし方はよくわかる。
こたつから出にくい。エネルギーもさることながら、ぬくぬくが気持ちよく、寒いのは嫌、、、となる前列腺檢查
が、わたしは布団系のものは使用していない。
床暖房に食卓と椅子。あとは、ドリップコーヒー。
よっこらしょと座位から頑張らなくても、高めの位置の椅子だからすっと立てるので障害物もなく、動くのに、エネルギーは要らない。
にもかかわらず、、、
何?この、めんどくさがりようは?

わたしの自己分析によると、、、
「オフ」である。
オンとオフがあり、今はオフなのだ。
季節の問題もあるが、今は何も動きがない。
①精神的②行事的③義務的④ビジネスがらみ⑤身に降りかかる偶然的事項、、などなど。
オフを続けすぎると、急にオンのスイッチを入れても動かなかったり、トラブルが生じたり、円滑に行かない。
昨年後半はその皺寄せがどっときて、かなり慌てた。
なので、適度にオンとオフを混ぜて行動しないと、スタンバイ維持にはそれなりの微弱であるものの力が必要。

と、入力しながら、とりあえず、今日のお出かけはやめた。
なぜか、夫がちょっと(30分?)出かけた。不思議な微妙なバランス。
さて、明日はどうなる?
朝が早いから、今日から気力をスタンバイすることになるだろうから、たぶん、行かない。
なあああんだ。

とかなんとか、冬籠を楽しんでいる。

と同時に、最後まで全く中身のない本日のブログ記事を読んでいただいた方には申し訳ない気持ち。
傾聴お疲れ様でした。


あ、最後に。
もっとどうでもいい追記。
今、別SNSで初めてそこで日記をアップしている還暦を過ぎた男性がいる香港人移民加拿大
まだ5日目ぐらいだが、毎日更新されている。
初めて親元を離れる男性で、自由に使っていい1500万円を弟さんから渡され、今から自活、自立の道に入る。
貸アパート物件探しから始まり、面白い。
食事時にはお母さんから「ごはんが出来たわよ」と呼ばれる、生まれてから今までずっと続いていた実家暮らしに決別し、独立するそうだ。
夢が広がっているワクワク感が伺える。
自立が確立され一人暮らしを謳歌できた矢先、お母さんの介護に呼び戻される可能性は否めないが、まだお母さんが元気なうちの、貴重な今しか出来ない体験!!
応援している。

それはそうと、、、。
今朝、兄たちに逢いたくなった。
二人とも幼い頃にもうこの世を去っているので、その後に生まれたわたしたちきょうだいは、兄たちの顔を知らない。
先日、彼岸に実家を訪れた時に初めて兄たちの生前の写真を見たultherapy 價錢
わたしは、今まで一度も兄たちの写真を見たことがなかった。
父が、思い出すのが辛いからと、兄たちの写真は破り捨てられ、アルバムには剥がしたあとがあるだけだった。
が、姉が、古いアルバムを見せてくれた。
そこには初めて見る兄たちの顔があった。
無性にポロポロと涙が流れた。
こんな顔をしていたんだ。
名前しか知らなかった兄たち。
家族揃って、若い父、母と兄たちの四人の家族の肖像があった。

こんな可愛い盛りに次々と子供たちを亡くした父と母。
上の兄が3歳ぐらい、下の兄が1歳ぐらいの写真だったthermage 效果
モノクロの若い家族写真だった。


父は他界している。
顔も人生も丸ごと知っているし、時間を共有した日々だった。
だが、夭折した二人の兄たちは、話は聞いていたものの、顔を見たことはなかった。
先日、初めて見た時は、さらっと見たが、今回はマジマジと見てみた。
こんな顔だったのか、、、あどけない幼児。
誰に似ているのかな、生きていたら二人とも70代。
胸に迫るものがある。

わたしの小さい頃の写真も見た。
わたしの長女の1番下の娘(4番目孫)に、少し似ているような気がする。
写真に写っていた当時の年齢的なものが持つ特徴か。
3歳になっているか、なっていないかの頃。
3人きょうだいの中では、ものすごくユニークで個性的な上二人の特徴が濃すぎて、わたしのまあなんと存在感がないこと。
目立たない。
おとなしい女の子というかんじ。
姉は、見た目は漫画に出てくるような、気の強い負けん気いっぱいの女の子。
兄は別として、
そりゃあ女の子二人揃うと、大人達がわたしたち姉妹に投げかける言葉は、似たり寄ったり。
小学生だったある日、立ち寄った店の店員さんに、「同じ学校のお友だち?」と聞かれた。
同じ苗字の名札を二人共、胸に付けていたにもかかわらず。
たった2歳しか離れていないのに、全く正反対の姉妹だったHIFU
どうも遺伝子に偏りが見られるようだ。
きょうだい、5人もいれば、色々バラツキもあるだろう。

上の二人の兄が生きていれば、わたしの人生も少しは変わっていたかも知れない。
すぐ上の兄は、全くころっと生き様が変わっていただろう。
ある意味、上二人の兄が夭折したための、気の毒な犠牲者になったのかも知れない。
三男として生まれて育ち成長していたら、自分らしく、のびのび生きていただろう。
可哀想で同情する。が、仕方ない。
そういう宿命か。
静かに受け入れている。

わたしは、逢ったこともない兄二人に逢いたくなったらいつでもスマホに取り込んだ写真で逢える。
写真を見たくなる感情が湧いてきた瞬間にはもう目の奥がじーんと熱くなっている。
ウォーミングアップ状態で、感情が先走り、フライングして既に涙。
実際にスマホを開いて写真を見る頃はもう涙ほろほろボロボロ。
何に対して涙が出るのかわからない。
もう人生の変更が効かない、すでに夭折した、顔も知らない兄を思ったところで、何を思うのか。
しかも、生きている期間、時期はズレているため、逢うことは不可能。
兄たちが亡くなってからわたしたちは生まれた。
懐かしい、という感情はあり得ない。
人生が花開かず閉じてしまったことに対してか。
他人ではなく、わたしの実の兄たち。

昨夜から読み始めた、お取り寄せ著書。
導入部は、一気に読んだが(プレゼン序章部分)、肝心のノウハウ部分に進むと、読むスピードが鈍化している。  
いつもわたしは、こうだ。
悪い癖。

絵に描いた餅の話は大好きな癖に、具体的にどうやって絵を描くか、という件(くだり)になると、途端に情熱が薄れる。
実はその中身が一番、大事なのに。
過程を疎かにして、結果ばかりを追い求めているということかReenex
だが、著者が勧める人生時間の楽しみ方は、今、わたしが実践していることと同じ。
入口ややり方は違っても、出口からは同じ道。
なので、真ん中の過程にあまり興味を示さない。

目的だけでなく、目的に辿り着くまでの経過を含めて楽しもう、堪能しよう、という著者の言葉。
目的に向かう家を出た時から、その前の、家で準備をしている時から、もう楽しみは始まっている。
決めた目的のことだけなら、一瞬で終わってしまう。
これは、わたしの今の現状、心情にぴったりマッチするMedilase 脫毛

実はわたしは目的は何かを薄々悟っている。
それも幼少時から。
なので、あくせくムキになって頑張っている人が目の前しか見えていないのもわかる。
人生の目的を成し遂げることなどないと感じている。
次の目的が続いて待っている。
次から次へと活気があってイイね、なのだろうけれど。
鼓舞しようと自分に鞭打っているようにしか見えない。
それはそれで結構なことだが。

山には頂上があり、登りきってはいけない。
わかっているが、(人は)登る。
が、降りる自分、降りることに労力をかけなければならないことを実感する厳しい現実に直面することになる。
それが嫌なら、登らないで、ずっと歩いていれば良い。
山も谷もなく、ひたすら歩く。
が、メリハリのある自分の一生を自分でデザインするには、自分と向かい合わなければならない。
自分は何を求めているのかを明確にし、それを実現するために大まかにプランを作る。
大きなプランの実践の延長に今日がある。

今日の続きが明日なら、とても幸せだ。
明日、また明日のことを決めたらよい。

著者の人と、ある意味、共通する心境である。
が、そんな心境はある日突然、神様からのプレゼントで天から舞い降りてくるわけではない。
自分でやらないと。自主性のもとに。
神様は後ろからそっと背中を押してくれるだけだ。

と、コーヒーブレイクは終了。
肝心の著書の中味、続きを読まなければ。
休み休み読もう。
のんびりしていたら、ちびっ子たちを預かる時間が迫ってきたDermes 脫毛
今日は親なし(両親共に出張)、お泊まり保育(4人も)。
また、ママママ?と、わんわん泣かれるのかと思うと、顔を見る前からすっかり疲れている。

昨夜から読み始めた、お取り寄せ著書。
導入部は、一気に読んだが(プレゼン序章部分)、肝心のノウハウ部分に進むと、読むスピードが鈍化している。  
いつもわたしは、こうだ。
悪い癖。

絵に描いた餅の話は大好きな癖に、具体的にどうやって絵を描くか、という件(くだり)になると、途端に情熱が薄れる。
実はその中身が一番、大事なのに。
過程を疎かにして、結果ばかりを追い求めているということか。
だが、著者が勧める人生時間の楽しみ方は、今、わたしが実践していることと同じ。
入口ややり方は違っても、出口からは同じ道。
なので、真ん中の過程にあまり興味を示さない。

目的だけでなく、目的に辿り着くまでの経過を含めて楽しもう、堪能しよう、という著者の言葉。
目的に向かう家を出た時から、その前の、家で準備をしている時から、もう楽しみは始まっている。
決めた目的のことだけなら、一瞬で終わってしまう。
これは、わたしの今の現状、心情にぴったりマッチする。

実はわたしは目的は何かを薄々悟っている。
それも幼少時から。
なので、あくせくムキになって頑張っている人が目の前しか見えていないのもわかる。
人生の目的を成し遂げることなどないと感じている。
次の目的が続いて待っている。
次から次へと活気があってイイね、なのだろうけれど。
鼓舞しようと自分に鞭打っているようにしか見えない。
それはそれで結構なことだが。

山には頂上があり、登りきってはいけない。
わかっているが、(人は)登る。
が、降りる自分、降りることに労力をかけなければならないことを実感する厳しい現実に直面することになる。
それが嫌なら、登らないで、ずっと歩いていれば良い。
山も谷もなく、ひたすら歩く。
が、メリハリのある自分の一生を自分でデザインするには、自分と向かい合わなければならない。
自分は何を求めているのかを明確にし、それを実現するために大まかにプランを作る。
大きなプランの実践の延長に今日がある。

今日の続きが明日なら、とても幸せだ。
明日、また明日のことを決めたらよい。

著者の人と、ある意味、共通する心境である。
が、そんな心境はある日突然、神様からのプレゼントで天から舞い降りてくるわけではない。
自分でやらないと。自主性のもとに。
神様は後ろからそっと背中を押してくれるだけだ。

と、コーヒーブレイクは終了。
肝心の著書の中味、続きを読まなければ。
休み休み読もう。
のんびりしていたら、ちびっ子たちを預かる時間が迫ってきた。
今日は親なし(両親共に出張)、お泊まり保育(4人も)。
また、ママママ?と、わんわん泣かれるのかと思うと、顔を見る前からすっかり疲れている。